福泉洞古墳群は, 6世紀以前の釜山唯一の支配層の墓であり, 伽耶文化の繁栄と新羅への編入過程を生々しく見せてくれる遺跡である。古墳群の規模は, 海抜60m, 長さ700m, 幅80~10m程度であり, 東萊中心街の北側の馬眼山中腹部から西南へ長く広がる丘陵の上に密集分布している。
1969年9月, 東亜大学校博物館が1号墓を調査したことで学会でも知られるようになり, 以後1980年釜山市の住宅改良事業地域として内定したため本格的な発掘調査がなされた。調査結果, 三国時代の釜山の歴史や文化は勿論, 伽耶文化の解明においても重要な古墳群として確認され, 釜山市が古墳群の整理と公園化事業を推進した。その後, 2次, 3次, 4次発掘調査で遺跡の性格を把握し, 文化発展の過程を究明することができるようになった。5次発掘調査では, 本格的な保存整理事業推進による塀の設置地域と後門地, 野外展示館敷地の発掘がなされた。 その後, 1996年10月5日に釜山市立博物館福泉分館として開館し, 出土した遺物を展示し, 発掘した遺構にはチョウセンヒメツゲを植えて位置を表示した。そして1997年と1998年にも2度に渡って福泉博物館進入道路及び周辺道路拡張工事のための発掘調査が実施され, その結果計28基の古墳が追加確認された。
福泉洞古墳群で調査した遺構は全部で169基で, 木棺墓9基, 単独木槨墓75基, 副槨のついた木槨墓17基, 甕棺墓4基, 副槨がついた竪穴式石槨墓8基, 単独竪穴式石槨墓55基, 横穴式石室墓1基などである。遺構の分布状態を見ると, 丘陵の頂上部には副槨のある大型墳があり, 周囲の丘陵斜面には副槨のない小型墓がある。大体, 中心部の墓は丘陵の南側から北側にいくに従って順次築造されている。木槨墓は主に丘陵の下部分から中間部分に設置されており, 竪穴式石槨墓は中間から頂上へと築造順序を見せており, 横穴式石室墓は丘陵の下部分に木槨墓を破壊して築造してあった。これらの墓から出た遺物は, 靴型土器を始めとする土器類が2,500点以上, 鉄製甲冑を含む金属器類が2,720点以上, 金銅冠を含む装身具類が4,010点以上, 骨器などのその他の遺物が10点ほどで, それ以外に人骨5体, 馬の歯などの動物の骨7点なども含まれている。特に, 57号古墳出土の咸安系土器や日本系土器は, 当時の文化の姿を示しているだけでなく, 対外交流関係の究明にも重要な資料となった。また, 大量の甲冑や馬具資料は当時の政治状況を示す根拠となっている。
ここに展示された墓の築造方式や副葬品などを通じて当時の埋葬文化を知ることができる。野外展示館を囲む古墳群にはチョウセンヒメツゲを植えて発掘調査した代表的な墓の位置を表示してある。